御先祖様、御両親から脈々と受け継がれてきた命への感謝

日々生かされていることへの感謝を忘れてはいけません。
「他人に御迷惑をかけてはいけません」と御親様から言われてしつけられた方もいらっしゃるでしょう。
常に「ありがとう」の心を忘れないで下さい。
「他人に迷惑をかけていないから…」という言い訳をする人もいらっしゃいます。どれだけの人が、他人に迷惑をかけない人がいるでしょうか…
そして、他人に迷惑を掛けないことが立派なことでしょうか…
大切なことは、迷惑をかけたら「ごめんなさい」と素直な心を持って謝罪することが最も大切なことです。
どうか、いつも「ありがとう」「ごめんなさい」の心のあり方を忘れないで下さい。

感謝の心を忘れなければ必ずあなた御自身が心に太陽を持ち前向きに歩み、素晴らしい御縁と結ばれることでしょう。

「亡くなられた御霊(みたま)さまの御供養も大切」

生きている私達と亡くなられたみたまさまの共通するものは何でしょう。
それは…「魂」です。
私達は、肉体を持っている魂であり、姿が見えて言葉を話しコミュニケーションをとることができます。しかし、亡くなられたみたまさまは、肉体を失った魂であり、姿もなくなり、伝えたいことも伝えることはできません。幽冥主宰大神様との御神縁がなく、また御家族の供養(みたままつり)も期待することができない「みたまさま」は幽冥に帰れずに苦しみさまよっております。
苦しんでいる「みたまさま」の魂は私達の目に見えませんが、人混みにまじっているように、たくさんいらっしゃいます。

当神社の主祭神の大國主大神様(別名)幽冥主宰大神様のお力で一霊でも多くの「みたまさま」が「苦しみ」「なげき」「迷っている」魂の救済のために真心を込めて丁寧に「みたままつり」をさせて頂きたいと思います。

幽冥主宰大神様の御神徳は、いかなる因縁のある「みたまさま」も御救いになられます。

「命に合掌」

お食事をする時に「いただきます」と言っていますか。

「いただきます」とは「何をいただきます」という事なのでしょうか。皆様の御家庭などでのお食事は人間の手によって調理された食事です。
一人暮らしの方などはお店でお弁当などを購入するでしょう。調理加工される前は、お肉(鶏・豚・牛・魚)、卵、お野菜(植物)海のお野菜(海藻)、お米(穀類)、果物などです。調理加工される前は、今を生き、明日も生きたかった「大切な命」そのものなのです。その「大切な命」は私達人間が生きてゆくために必要な栄養素であることから、「その大切な命」を捧げて下さり調理加工されお食事となります。
「いただきます」それは「大切な命をいただきます」ということなのです。
お肉やお魚、お野菜、海藻、果物などの「大切な命」をいただき私達の命を繋ぐのです。お食事の前には合掌して「大切な命を」「いただきます」と感謝を致しましょう。食べ残しを捨てたり、食べ物を粗末にすることは「罪」な事なのです。

1人でも悩み苦しんでいる方達を大神様たちの御神徳に依り真心をもって丁寧にお救いさせて頂きたいと思います。神道の歴史は2,000年以上、仏教の歴史は1,200年以上です。長い歴史の中で伝えられてきた「生・老・病・死」における御祈祷と御供養の御利益を感じて頂きたく思います。

多くの方達の御参拝を心よりお待ち申し上げております。

御先祖供養・水子慰霊供養祭のお悩み、神道の葬儀・御先祖供養などの御相談承ります

仏教では死後の四十九日までは七日七日の間、追善の法要があり、その後は百日忌、一年忌、三年忌、七年忌、十三年忌、二十三年忌、三十三年忌、五十年忌などの“追善法要”をして下さいます。

一方で神道はどうなっているのかといえば、「日本人の習慣(すなわち神道)にしたがって年忌法要を考案した」と言われております。

仏教の本来は「一切空」です。たとえ浄土教であれ念仏往生によって極楽浄土に往生した者に追善の供養は必要なく、すべては生き残った者の安心立命を確立するための方便としてあるものです。

したがって神道が行う真面目な式年祭(年忌供養)は迷信的な行為といえます。

しかし神道では、「死後の人間は、次第に浄化して、ついには浄明霊(光輝く聖霊)となって、子孫のために守護霊・守護神となる」とされています。そのため“死後の祭”は厳重に行われ、明治以後は「死後は当日祭、発葬祭、五日祭があり、後は十日毎に五十日祭まで行われ、百日祭、一年祭、五年祭(場合によっては三年祭を加えます)、十年祭、二十年と十年毎に五十年祭まで行い、その後は五十年祭毎に式年祭を行う」と決められています。

その間、「汚れた霊は祓に神事によって浄められ、幽冥主宰大神の手によって、幽冥世界のいずれかに派遣され、諸種の生産的な業務に就いて、誤った宗教観(霊界観や人生観)を解除する任務を行い、それによって発生した悪霊を粉砕消滅させる聖業に就くのである」としております。

幕末以来、学者が死後世界のあり方について論争を繰り返してきましたが、文献学的な論争だけでは証明するものはありませんでした。民俗学的な調査を行って、庶民の中に伝えられる古殿の他界観に神道の精髄が確認されるという結論にいたったが、神社界はそれを認めなかったから、「神葬祭」は今では珍しい儀式とされています。

しかし、大國主大神にお願いして祖先の霊を委ね、幽世を管理しておられる幾多の守護神(産土神など)にお願いして、仏教の呪縛(地獄・極楽)を超越した世界に送り込むことができる神葬祭を否定したら、何のために神仏分離したのかわからなくなってしまいます。

今日に至るまで、神社は吉祭を行う所で、凶祭はしない、従って、死に関することは不浄であり、穢れであるから神職はこれに近づくべきでないとしたのは、

神道は明るく生きることが大切だという主張からであり、充分意義のあることです。あなたにとって最愛の人が亡くなる、その死を送る神葬祭は確かに人生の悲しみであり不幸であることに間違いはありません。しかし、神道では、悲しみや不幸を禊祓・まつりによってこれを正善に向けかえていく事も大切な事です。死者の魂の不浄を祓い清めて、その不幸・悲しみを神葬祭更には霊祭によって魂の浄化、吉化することも、神職の大切なつとめであります。